[医療]健康診断など採血の際に注射針により前腕の神経を損傷したとして損害賠償が争われた裁判例(名古屋
■日常にあふれた危険
健康診断や献血に先立つ検査などでは前腕に注射針を刺して静脈から血液を採取しますが、前腕には正中神経、尺骨神経、橈骨神経といった抹消神経が通っているため、看護師や医師など医療関係者であっても注意を怠ればこれらの神経を傷つけてしまうことがあります。
このような日常多くの場面で行われる採血ですが、神経損傷が損害賠償として争われた事案はそれほど多いとは言えません。
またこのような医療に関する注意義務違反を主張していく場合には、立証の困難性などハードルが高いという印象もあり、過去の裁判例をよく検討してみる必要があります。
■健康診断の採血の際に前腕正中神経を損傷したとして後遺障害等級7級3号がみとめられた事例*1
●事案の概要
本件は高校の女性教諭が健康診断の採血の際に注射針により前腕の神経が損傷され反射性交感神経ジストロフィー(RSD)を発症したとして病院に損害賠償を求めました。
●裁判所の判断
この事案では当初尺骨神経を損傷したとする診断がありましたが注射の部位からみて尺骨神経を損傷した可能性はなく後に医学的に否定されています。
この点について裁判所は、「控訴人が感覚低下を訴えた部位は、正中神経が支配する中指の尺側及び環指の橈側に加え、尺骨神経が支配する環指尺側及び小指に及んでいるため、一見、正中神経、尺骨神経双方の損傷が疑われるが、」「実際には、尺骨神経損傷は否定される。他方、尺骨神経の支配する環指尺側及び小指橈側の感栄低下は、正中神経損傷の影響が正中神経から尺骨神経の分枝(更に末端部分で分枝して環指尺側及び小指橈側に走行するもの)に合流する知覚交通枝を介して発現したものとの説明が可能である。」としています。
裁判所は、各診断を検討した上で、「前腕内側皮神経及び正中神経の損傷」と結論づけました。また「本件採血から七年以上経過してもなおチネル徴候が残存しているのは、未梢神経損傷により神経線維の一部が損傷され、縫合、修復による解剖学的復元が図られないまま放置され、損傷部位に断端神経腫が形成されたため」としました。
またこの神経損傷が本件採血により生じたものかについても争われましたが、裁判所は、「本件採血の際に控訴人が痛みを訴えたため、B山技師は必要量の半分しか採血できていなかったにもかかわらず採血を中止したのであって、この事実は、採血の目的等に照らしても、極めて異常な事態が生じたことを強く推認させる」とし、医療関係者の証言については「むしろこのような重要な事柄で同人らが事実を隠そうとしている裏には、同人らに非常に都合が悪い事情が存在するのではないかとの疑いも当然生じるところである。」などとして証言の信用性を否定しました。
裁判所は、結論として、「B山技師が、本件採血の際、控訴人の前腕内側皮神経及び正中神経を損傷し」、「これが原因となって、控訴人はRSD又はカウザルギーを発症した」と判断しました。
そして注意義務違反については、「本件採血の状況や採血の一般的技法、注意事項等にかんがみれば、B山技師には、被控訴人の業務として本件採血を行った際、格別やむを得ない特殊事情もないのに、注射針を静脈から逸脱させて控訴人の上記各神経の損傷を招いた点に過失のあることが明らか」としました。
また損害として逸失利益に関して、「正中神経という主要な末梢神経が不完全に損傷されたために灼熱痛等が持続し、前記一(5)キのとおり、症状固定日である平成一六年一二月三日の時点で家庭生活、社会生活を円満に送るには至っていないというのであるから、その状況は、軽易な労務以外の労働に常に差し支える程度の疼痛があり、後遺障害別等級表第七級の三(労働能力喪失率〇・五六)に該当すると認められる。」としました。
もっとも本件では症状固定に長い時間がかかったことに本人の個人的な要因が影響していた他、「症状固定時の状況が今後回復・改善する見込みが全くないといえるかどうかについては、なお、不確定な要素が存する」として後遺症の損害については10年に限定しました。
●コメント
本件では注射針による前腕の正中神経損傷という重大な過失について、一見矛盾する診断が交錯し、医療関係者も事実を隠そうとし、患者本人も仕事や運転を続けていたこと、症状固定までに長時間がかかったことなど損害賠償を判断するのに障害となる事情が多く存在していました。
そのような難しい状況でしたが、裁判所は詳細に検討を加えて損害賠償を肯定しました。
採血という一般的な医療行為ながらこれだけ重大な神経損傷となり得ること、その場合に立証という大きな壁があることを認識しておく必要があるでしょう。
■献血に先立ち試験採血の際に前腕皮神経を損傷した看護師に手技上の過失がないとされた事例*2
●事案の概要
本件は献血を実施した看護師が献血に先立つ試験採血の際に左前腕の皮神経を損傷したとして損害賠償を求められたことから看護師側がそのような債務が存在しないとの確認を求めたものです。
●裁判所の判断
まず裁判所は皮神経損傷について「献血等で注射器を使用して静脈から採血する際、注射針が、静脈のごく近傍を通過している前腕皮神経の繊維網を損傷することがある。右損傷の機序は、注射針の先端部が鋭利な刃の構造をしている結果、注射針が皮神経の繊維網の位置まで穿刺されることで、皮神経の繊維網が断裂したり、一部損傷を受けることである」とし、「皮神経損傷が発生した場合、前腕皮神経は、運動神経繊維を含まない知覚神経であるので、その損傷時には、神経損傷による直接的な運動麻痺を生じることはなく、したがって、筋萎縮及び関節可動域の減少等の症状を生じることはない。しかし、知覚神経を損傷した結果、症状として、穿刺された瞬間、穿刺された部位を中心として、灼熱感を伴う疼痛を感じ、その程度は、通常の注射や採血の場合と比較して相当に大きく、その後、損傷を受けた当該皮神経の知覚領域につき、痺れ感、知覚脱失、知覚鈍麻及び違和感が発生し、脱力感に伴う筋力低下及び運動障害などが生じることがある」などと前提を述べています。
そして本件では、「原告甲野の試験採血時からの被告の対応や中嶋医師により認めた被告の左前腕部の症状は、皮神経損傷の原因、症状と齟齬しないことなどからみて、原告甲野の採血行為によって本件傷害が生じた」と判断しました。
もっとも看護師の注意義務違反については、「献血に際して採血を行う看護婦には、医師の指示に従って、献血者の身体に異常は発生しないように、採血の部位や注射器に加える力等に十分に注意して注射針を穿刺するべき注意義務がある」としつつも、「原告甲野は、准看護婦の資格を有し、本件事故当時、献血業務に従事して九年目であったこと、原告甲野は、被告に対する試験採血においても原告日赤が定めたマニュアルどおりに、被告の左右の腕を見分した上、左腕に駆血帯をかけて静脈に注射針を穿刺することにより採血したこと、試験採血においては、静脈に注射針を穿刺して注射器を軽く吸引するだけであること、穿刺予定部位は前腕部尺側(内側)であること、前腕皮神経は、それよりも太い神経繊維の束(太さ一ミリメートル程度)からなり、尺側には内側前腕皮神経が皮膚から比較的浅い皮下脂肪層を通過し、静脈周辺を通過する部分もあるところ、注射器の使用による神経の損傷は、橈骨神経、坐骨神経及び正中神経に関しては、その部位を予見することによって神経損傷を回避することができるが、前腕皮神経に関しては、静脈のごく近傍を通過している前腕皮神経の繊維網を予見して、その部位を回避し、注射針による穿刺によって損傷しないようにすることは、現在の医療水準に照らしおよそ不可能である」とされることから過失はないとしました。
●コメント
本件では神経損傷が注射針により生じたものであることを認めましたが、前腕皮神経を注射針で回避することが不可能であったとして看護師の過失を否定しました。
皮神経の損傷は通常であれば数日で回復するということのようですが、のちの症状については個人差もあるため場合によっては後遺症が残ることも否定できないようであり、神経損傷を受けた側としては納得ができないと考えるかもしれません。
■看護師による採血の際に正中神経を損傷したとして行為障害等級12級の12がみとめられた事例*3
●事案の概要
本件では採血を行った看護師が正中神経を損傷させこれに起因するCRPS(Complex Regional Pain Syndrome(複合性局所疼痛症候群))typeⅡ(従来,causalgia(カウザルギー)と呼ばれていたもの。)を発症したとして損害賠償請求を行いました。
●裁判所の判断
まず正中神経損傷の診断について裁判所は、「診断方法についてみると,末梢神経が損傷された場合には,その支配領域の知覚と運動機能が障害されることから,末梢神経損傷の診断は,神経損傷を惹起する外傷の確認,知覚障害の領域が神経支配領域に一致すること及び運動麻痺(筋力低下)の筋肉の範囲が神経支配領域に一致することを確認することによって行う。その他,補助診断として,針筋電図検査,神経伝導速度検査などの電気生理学的検査が有用とされている。そして,肘部で正中神経が損傷された場合,その支配領域である,母指,示指,中指及び環指の橈側2分の1の知覚障害が生じ,同部にしびれ,疼痛,知覚鈍麻,知覚脱失といった症状が現れる。また,上記支配領域内の筋肉が麻痺するため,母指及び示指の屈曲が困難となり,さらに,母指の対立運動が困難となるため,母指と他の指で物をつまんだり,把持する動作が困難となる。
なお,神経損傷(断裂)による麻痺の臨床診断の方法としては,運動麻痺については,筋力を徒手筋力テスト(MMT)により0ないし5の6段階で評価し,支配筋の麻痺を診るとされており,感覚麻痺については,Semmes-Weinstein感覚計を用いた触・圧覚の検査,2点識別覚検査等を用いて,固有神経の支配領域及び固有支配野の感覚を検査するとされる。そのほか,チネル徴候(神経の損傷部を軽く叩打,又は圧迫すると痛みがその神経の支配領域に向かって放散する現象)は,末梢神経再生の進行を示す徴候とされるが,末梢神経損傷を示す徴候としても使われており,感覚神経の損傷部でチネル徴候が陽性となることは,損傷部位の診断及び神経の再生状況を知り,予後を判定する上で極めて重要とされている。」としました。
本件については「看護師が採血針を刺し入れた位置は,控訴人の右腕の上腕骨外側上顆と上腕骨内側上顆を結んだ線上から末梢(手先)方向へおおむね11ないし13mm付近の静脈であること,MRI検査画像からみて上記線上付近における正中神経は,正中皮静脈のやや橈側の深部にあり,正中神経の上辺は表皮から約5.8mmの深さにあること,標準的な採血時の針の刺入角度は15度から30度とされているところ,上記刺入部位から,24度ないし28度の角度で採血針を進めたとすると,先端を4.52mmないし6.87mm刺入すると,採血針先端は静脈内にあり,その位置からさらに採血針先端を6.77mmから7.38mm進めると採血針先端が正中神経に接触し得ること」、「本件において採血針が採血静脈を逸脱したのは,真空採血管の挿入時に誤って瞬間的に不必要な力が加わったためと推認されることからすると,そのような力によって,採血針が採血静脈の走行方向を離れて約5mmないし約7mm程度進んでしまうことがないとはいえない。」ことから、「本件採血時の針の刺入は,正中神経損傷を惹起する可能性のある外傷である」としました。
そして「挿入時,被控訴人Y9看護師において,控訴人の痛みの訴え等から,採血針が血管を逸脱した可能性があると考え,採血針を抜き,控訴人の指先の動作を確認するなどして採血を中断せざるを得ない状況であったことからすると,控訴人の痛みの訴えは,少なくとも採血を担当した看護師をして神経損傷の可能性を疑うほどの異常を感じ,採血を中断せざるを得ない程度のものであった」とし、さらに「その直後,看護師は,控訴人の緊張していた様子から自らが採血をしないほうがよいと考え,医師に採血を依頼したというのであるから,痛みを訴えた後の控訴人の挙動も,周囲にその重大性を感知させるに十分なものであった」としました。
そのため「本件採血の際真空採血管を挿入した時の針先の移動は,正中神経損傷を惹起する外傷となり得るものと認められる。また,c病院における知覚検査の結果は正中神経領域に他の神経領域と異なる知覚障害を示しており,B医師及びC医師はチネル徴候を認めて正中神経領域に知覚障害ありとの所見を示していることなどからすると,正中神経領域に一致した知覚障害があるといえる。さらに,徒手筋力テストの結果によれば運動麻痺(筋力低下)の筋肉の範囲は正中神経支配域に一致している。加えて,控訴人が真空採血管挿入時に電撃痛を訴えていたとみられる。これらを総合すると,控訴人には正中神経損傷があった」としました。
つぎに「カウザルギーないしRSDを発症したか否かの判断については,我が国の症例に基づく最新の医学的知見である厚労省平成19年CRPS判定指標を考慮の外に置くのは相当ではなく,これを充足するか否かという検討を欠かすべきではない」の前提に立ち、もっとも」同指標は重症度や後遺障害の程度を示すものではないから,後遺症があると判断できる場合には,厚労省平成15年障害等級認定基準をも参考として,症状の内容,程度,他覚的所見等を総合的に考慮して,後遺障害の程度等を判断するのが相当」としました。
そして裁判所は、本件についてのあてはめを行い、結論として、「CRPSに該当しうる」としました。
また過失については、「本件採血は真空採血管を使用する方法によるものであり,採血手技を解説する文献には,採血時には針先の動きがないように採血ホルダーを固定すべきものとされている」のに対し、「看護師は,採血に際し,採血ホルダーを固定し針先が動かないようにすべき注意義務があり,これに反して採血ホルダーの把持固定が不十分なまま真空採血管を挿入したため,採血針の先端が採血静脈を逸脱し,正中神経に損傷を与えた」ことから、「採血手技上の過失がある」としました。
さらに逸失利益に関連して、「後遺障害の程度については,厚労省平成15年障害等級認定基準中のカウザルギーに係る部分において,疼痛の部位,性状,疼痛発作の頻度,疼痛の強度と持続時間及び日内変動並びに疼痛の原因となる他覚的所見などにより,疼痛の労働能力に及ぼす影響を判断することとしているのを参考に判断すべき」として、本件では「CRPSは多様な症状を呈することがあり,その機序はなお明らかにされていないことを考慮に入れても,控訴人の疼痛等の自覚症状には必ずしも十分に他覚的所見の裏付けがあるとは言えず,その疼痛やしびれ等についても,ある程度右腕の筋肉を使用しうる程度のものである」などとして、「後遺障害の程度は,労働者災害補償保険法施行規則別表第一障害等級表の第12級の12「局部にがん固な神経症状を残すもの」に該当し,労働能力の14%を喪失した」としました。
●コメント
本件では第一審で棄却された損害賠償請求が控訴審で変取り消され、一部認容となったものですが、正中神経の損傷によりCRPSが発症したとしてもその症状は多様であり障害等級12級にとどまるものと判断されました。CRPSの診断は本人の心因的な要素も影響を受けるといわれており客観的な診断が難しく裁判でも判断に幅が出てしまうのもやむを得ないともいえます。
■まとめ
今回は採血の際に注射針によって神経を損傷した場合についての裁判例をみてきましたが、点滴の準備で留置針により神経を損傷する場合とは異なり、短期間で貼りを抜くことが予定されているため関節に近い部位に駐車張りを穿刺する場合が多くなります。
そのため手首から離れた肘関節に近い部分で正中神経を損傷することが多いといえるようです。成虫神経を損傷してもCRPSなどの後遺障害がどのように起こるかは個人差も大きく医師の診断も一定しない面があるため、立証面での課題をどのように克服するかを検討する必要があるように思います。
■お気軽にご相談ください
水野健司特許法律事務所
弁護士 水野健司
電話(052)218-6790
info@patent-law.jp
https://line.me/ti/p/q3CM38g0b_
■今回紹介した裁判例
*1 仙台高裁秋田支部平成18年5月31日判決 2006WLJPCA05310011
健康診断の採血の際に前腕正中神経を損傷したとして後遺障害等級7級3号がみとめられた事例)
*2 大阪地裁平成8年6月28日判決判タ 942号214頁判時1595号106頁
(献血に先立ち試験採血の際に前腕皮神経を損傷した看護師に主義上の過失がないとされた事例)
*3 東京高裁平成27年 3月25日医療判例解説 82号26頁
(看護師による採決の際に正中神経を損傷したとして行為障害等級12級の12がみとめられた事例)